PHILOSOPHY
ウムヴェルトを散歩して、世界を認識する困難さに寄り添う
目次
ウムヴェルトは無限に広がる
ChatGPTが、6年かかった博士論文を10分ほどで完成させてしまう。近未来SFか悪夢のようなことが、今手軽にiphoneやipad上でできるようになった。
とある工学博士はChatGPTの画面を見つめながら、自分の地獄のように長かった博士課程の成果が一瞬のうちに生成されていくのを見て、敗北感と高揚感の入り混じる不思議な興奮に包まれていた。最早、自分の知性では到底AIに及ばないのではという不安と、一方でChatGPTにそうした回答をもたらすプロンプト・問いかけができる人間自身の高い知能への自負。彼はすかさずChatGPTに博論についての更に高度な問いかけをし、AIと議論を始めた。それは大学で科学者たちと交わす議論と同等か上回るようなAIによる新しい視点の提供の連続であり、新しい次元の知性への誘いであった。
いまや「人間拡張」は現実のものとなり、AIのみならず、様々なテクノロジーと人間が一体となることで、人間自身の持つ知性や身体性がいまだかつてない高みに到達しようとしている。ユクスキュルが提唱した生物それぞれが知覚する世界を表す「環世界ーウムヴェルト」の概念でも、人間の知覚する世界がAIなどテクノロジーによって広がり始めている。
参考記事:環世界という楽園で、人は森羅万象を夢見る
自分とは何で、それが拡張されてゆくとはどんなことか。“自分が自身と世界をどう捉えているか”、という、誰しもが持つ自己認識を今一度捉えなおし、人間がいかにより良くなれるかを考えてみたい。
神が全て決めているなら、私は何者だろう
自分は人生の主人公か?
こう問われると、日本人はどう答えるだろうか。
アメリカでは、”主人公症候群”と呼ばれるSNS世代の肥大化した承認欲求について、しばしばネットで議論されるほど、自分が人生の主人公であると信じる人がマジョリティだと思われる。
バグダッド黄金時代のイスラム教指導者は無神論者や異教徒たちを集めた議論で、人生の多くのことは定まっている(ただしある程度の自由選択はある)と書き記している。人生の出会いや出来事の道筋は全て神により決まっていて、その短い一生の中で自分が“神に愛される中心人物”であると考えるのは、一神教的な西欧価値観なのかもしれない。
日本では近年ビジネスパーソンの間で、“自分が人生の主人公と思うことで願望力を高める”という自己啓発が流行っている。また韓国でも、自分を人生の主役と捉え自分で決めることの大切さを説くチェ・フン著 李明華訳『私はすべて自分で決める。』が大手書店で自己啓発ジャンル一位を獲得するなど、評判を読んでいる。
こうした話題に触れる度、啓発されなければならぬということは、それだけ日本人が、そしてアジアのいくつかの国でも、自分を人生の中心に据えて考えることが難しい、という裏返しのように思える(あえて環世界の外を無視することで自己願望を高める方法がもてはやされるのは、自己中心的でエンパシーの薄い人ほどビジネスで成功しやすいという側面もあることを皮肉にも表しているようだ)。
日本では自然災害の断続的な脅威によるアミニズムの浸透と神道信仰によって、常に”おおいなるもの”に命運を委ねてきた。そうした中で更に互助努力としての「イエ」や「ムラ」の形成とその中での協調性をもった暮らしが、日本人の性に影響を与えてきたことは間違いない。
特にその性質が色濃く残っていた第二次世界大戦までの状況を踏まえて、アメリカの人類学者ルース・ベネディクトによる著書『菊と刀』で日本人が集団主義的であると指摘され、それが海外でも日本人自身にとってもイメージとして定着してきた(もちろんあくまで誇張されたステレオタイプであり、個々人によってその性質は違う)。
ゆえに多くの日本人にとって、「自分」は、母親、父親、会社員、アルバイト、若い、年老いた、といったラベリングごとに役割を担う存在であり、そうした役割を引き受けることでコミュニティや社会を形成する一部であるという自己意識が形作られていく。
西欧とアジアとをざっくり対比してみても、自分がどう存在すると捉えているかは人によって異なる可能性があり、環世界の在り方は人間のあいだでも実に多様だということが分かる。では、環世界のエコーチェンバーの中で自分だけを世界の中心と捉えるか、それとも自分が様々な側面で人と関わり合う移ろいやすい存在であることを認識し、環世界の外を知覚しようともがくか。一体どちらが、より良い自分へ近づけるのだろうか。
水槽の中の脳
環世界にいることを認識しようとする難しさについて、考えてみよう。
自分だけが実在していて、他の人間や世界は全てシミュレーションのようなものだと信じる人がいる。また世界はスクリーンのような2次元の空間に照射されているだけであって、自分はただそれを見ている、と信じる人もいる。
“横断歩道の白線以外が底なし沼だから飛ばして渡る”ような、子供のころ誰しもが一度は経験する思考のひとつでもあるが、でも誰が自分以外全てが存在しているとはっきり証明できるだろう。
また「水槽の中の脳」という有名な例えがある。脳だけになり機械に繋がれて、水槽に入れられ、日々生活しているデータやシミュレーションを見るが、その日々の生活が本当では無いと脳はどうしたら知覚できるだろう。
こうしたデカルトの「欺く神・悪い霊」的な懐疑論の思考は、自分以外全ての実存を疑い、究極の閉じた環世界に住むことにも似ているし、自己中心的でもある。
自分自身と、記号的に自分に似た者だけ擁護し、マイノリティとなった他者を排斥するような運動も、自分が築いた価値観や認知のシャボン玉にいることに気づかず、他人の環世界に思いを馳せられなければ、簡単に起こり得るだろう。
グローバリゼーションが飽和点を迎え、そこへ突き進む今、様々な国で声高に叫ばれるある一部の人種やエリアやレッテルに対する”区別”は、今後更なる高まりを迎えることは間違い無いだろう。欧州には右傾化や移民排斥の風が吹き荒れ、その鬱屈とした波は日本でも形を変えて表出しつつある。他者を知覚しその違いを認め合うことの切実さが強調される世紀になった。
人間拡張のメソッド
光学顕微鏡の発明者ロバート・フック(1635‐1703)は、著書『ミクログラフィア』にて「顕微鏡は視覚の拡張である。他の感覚器官、例えば聴覚・嗅覚・味覚・触覚なども、将来の発明で拡張されるだろう」と予言していた。現代こうしたテクノロジーによる“人間拡張”はより加速している。
ウェアラブルなテクノロジーにより物理的な身体機能拡張をもたらしたり、遠隔地にロボットアームなどで医師が手術技術を提供する存在拡張など、ヒューマンオーグメンテーションの方向性も多岐に渡る。近年はAIが急速な発展を遂げ、人間が持つ知能、そしてひいては環世界の知覚・認知の拡張を目指すこともできるようになった。
例えばChatGPTがいとも簡単にデバイスでアクセスできるようになったことで、検索という行為そのものに変化が起きたようだ。Google検索でも正しい情報に辿り着けるが、予測範囲内の情報を得ることが想定されてきた。しかしChatGPTは自分が思いもよらなかったトピックを提示してくれることがある。
また良き教師であり、追及したい分野について講義を行ってくれたり、問答を通してトレーニングしてくれる。単純な情報収集という枠を超え、まさに人間を凌駕する知能を人間の知識拡張のために惜しげもなく使ってくれる、良きバディのような存在である。また情報と情報、事象と社会などをネットワーク的に繋げて考えることを仏教用語の「縁起」と捉えれば、AIとは縁起を結ぶ力を高めてくれるツールでもある。
AIの台頭によって懸念されている、AIによる返答をただコピーペーストしやり過ごすことは確かに無知や無力に陥る可能性も孕む。しかし、そこで得られた知見を使って更に高みを目指してゆくことができれば、私たちが普通に暮らしているだけでは感じづらかった微細な繋がりに目を凝らす余裕が生まれ、人間全体の“見える世界”は大きく変わっていくだろう。
またAIが発展しても、AIの指示者たる人間でいられるかは大きな問題だ。
プログラマーたちの間では、2010年代「AIがプログラミングを代行するようになる未来はくるがずっと先だろう」という意見が一般的だったが、既にプログラミングは人間を凌駕する能力を見せており、労働者の雇用や解雇にも実際に影響を及ぼしている。現在はAIに指示する側でさえいれば、安定した仕事を維持することができるのが現状だ。
ではその指示する側として、人間はいつまで君臨することができるだろうか。人間自身が己の能力をいかに拡張し続けられるか、というところが、AIに全てを明け渡してしまわないための大きなアンカーストーンであり、私たちがこの社会で目指し続けなければならない道筋のようだ。
ソフィーは物語を去った
世界的に読まれている児童書であり哲学の入門書でもある『ソフィーの世界』では、主人公ソフィーが最後に物語自体からの脱出を果たそうとする。
ソフィーや私たちにとって、今持てる感覚器官で知覚できることが「世界」の範囲であり、それはごく「普通」の感性だ。例えばわたしたちには可視光線で見えるものしか見えないし、聞こえるヘルツの範囲でしか聞こえない。そして感じられることだけを感じ、知っていることだけを知っている。
ただし、これだけでは自分の環世界に閉じこもり、ある意味自己中心的に生き、他者への共感性を欠いてしまう。例えば、美術館の絵画展示の位置は車椅子の利用者には高すぎるし、エレベーターの無い駅はベビーカーの赤子を連れた親には途端に利用が難しくなり、美しいハイヒールは足裏でも情報を得ている視覚障がい者にとっては不便だ。この世の中はそれぞれの環世界があまりに独立していて、実際に他者の立場になってみなければ分からないことのほうが多い。
ソフィーは自身が物語の主人公であるということを知覚し、自分の環世界の外側が存在することを認め、そこへ出てみようとした。このことの意義は大きい。
私たちも日々生きる中で、共にこの社会を暮らす人々や生物に目を凝らし、お互いがあと少しずつだけでも自分を拡張してみれば、分断を乗り越え違いを認め合い、環世界が分かれたままでも皆が穏やかに暮らせる、より良い世界を形成できるかもしれない。
古代ギリシャの哲学者プラトンによれば、知覚なしに知識は存在しないと解釈できるが、テクノロジーと共に私たちのウムヴェルトも無限に広がりを持てるとしたら、それはどんな知覚世界になるだろうか。
人間とは、構成するすべての分子が1年未満で入れ替わるが、それでも「自分」であり続けるという、物質的かつ情報的な存在である。そして今はその「自分」すら、更なる高みへ変化していくことが可能である。そのための技術は今、私たちの目の前に大きく広がっている。
参考文献
ヨースタイン ゴルデル「ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙」 NHK出版社、1995年
ルース・ベネディクト「菊と刀」講談社学術文庫、2005年
「誰しもが「自分の人生の主人公」である」
Leader’s Lounge
https:// leaders-lounge.achievement.co.jp/archives/7154Main Character Syndrome Gets A Bad Rep, But You Can Harness Its Power For Good
Women’s Health
https://www.womenshealthmag.com/life/a42043426/main-character-syndrome/「デカルト的意識の脳内表現ー心の理論からのアプローチー」
苧 阪 直 行
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/273826/1/jps_578_103.pdf『日本人は集団主義的』という通説は誤り
高野陽太郎
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/press/p01_200930.html「人間拡張が築く未来 The Prospect for Human Augmentation Technologies」
暦本 純一
https://www.iii.u-tokyo.ac.jp/manage/wp-content/uploads/2021/03/100_3.pdf
伊藤 甘露
ライター
人間、哲学、宗教、文化人類学、芸術、自然科学を探索する者