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TECHNOLOGY

シンギュラリティが既に来た世界で ー将棋AIを創る人々が見た今とこれからー

世界コンピューター将棋選手権の実際の様子

AIが人を超えた今

2024年5月神奈川県川崎市で、第34回を迎えた「世界コンピュータ将棋選手権」が開催された。プロ棋士がこぞって研究に用いる将棋AIたちの、頂上決戦の場である。

将棋AIがその強さで人間を凌駕し、“将棋の神”のように捉えられるようになって久しい。人間に勝つという目的に既に達した今、なぜ将棋AI開発者たちは更なる高みを目指し続けているのだろうか。

伝説的AIの創造者が一堂に会する選手権の場に筆者が立ち会い、“シンギュラリティ後の世界”とも例えられる将棋AIからその真理を覗き見た。

将棋の真理は永久の彼方にある

世界初の将棋AI開発者、瀧澤武信副会長が選手権会場を見守る。

会場に入るとコンピュータ将棋協会副会長で早稲田大学名誉教授、瀧澤武信氏が朗らかな笑顔で迎えてくださった。

1974年に世界最初の将棋AI開発に取り組んだレジェンドであり、コンピュータ将棋協会の共同設立者で、現在も選手権の運営を行い現場に立ち続けている。開発を始めてから半世紀、今や最先端AIが生まれ続けるのを見届ける証人となった。

“人間に勝っても尚、なぜ開発を続けるのか”という命題について単刀直入に尋ねると、「将棋の真理を追及しています」という明朗な一言が返ってきた。

「棋士の先生方が非常な努力をされて、AIとプロ棋士に相乗効果が生まれていますが、申し訳ないことにAIの手がなぜ良いのか理由を現在でも説明できません。今年最高の将棋AIが生まれても、来年はそれが簡単に覆ってしまうがゆえに、今自分たちが正しい道筋に近づいているかすら誰にもわからないのです。だからこそより強いものをと開発を続けているのだろうと思います。終わりは見えません。人類が滅びても真理には辿りつけないかもしれない」

2016年にプロ棋士と将棋AIの戦いに決着がついたとき、瀧澤氏たち研究者はもう開発が下火になると思っていたという。しかし将棋AIにはニッチなフィールドながらも若い世代が常に流入してきている。会場には無数の挑戦者とPCがひしめき合っていた。

「皆で情報を共有することでAI全体の開発が飛躍的に加速したのは間違いないと思います。15年ほど前は人間から敵対視されていると感じることもありましたが、今は人とAIが一緒に勉強していると感じることが大きいです」

そうした目覚ましい発展の中で密にAIと関わっていると、様々な局面で倫理について議論する必要が出てくるという。ジェンダー、人種、個人情報など、AI技術は未だ様々な問題も内包している。AIの進化スピードがあまりに速く、現状は新しい技術が生まれる度に実社会でどうなってゆくのか予想しづらい。

「しかし、最終的には人間のためになるように、ということを目指しています」

そう答えた瀧澤氏の眼差しは、技術を生む側・使用してゆく側に倫理や道徳があれば、AIは正しい道を歩むだろうと確信させてくれる力があった。瀧澤氏は時折運営用のPCに向き合いながらも、会場の若き開発者たちを優しく見渡していた。

AIによる知性拡張とヒトの脳の限界

参加者でもある谷合廣紀四段、プライベートで観戦に訪れていた佐々木勇気八段、勝又清和七段など、プロ棋士の姿も多く見られた。

市販の将棋ソフトとして利益が生まれていた時代は過ぎ、選手権の会場は純粋な知的探求心の追及が人々の根底に鉱脈のように輝く、実にピュアな空間であった。

会場にいた現役開発者たちにも話を聞くことができた。

今大会優勝ソフト「お前、 CSA 会員にならねーか?」の開発者グループ代表であり、2016年から選手権に参加し続けているザイオソフトコンピュータ将棋サークル野田久順氏は、AI開発を続ける原動力について「自分自身が楽しい」と柔らかな語り口で答えた。

「開発によって数字が改善されていくのを追うのが楽しいという部分、そして『社会貢献』という点では、プロの先生方が使ってくださるものを作れるという喜びがあります。自分が作ったAIが実際にヒトへ還元されてゆくのです」

野田氏らが開発し続ける新しいAIの知性を人間として使用する立場にあるプロ棋士達も、今年の選手権には多く観戦に訪れていた。

自身も選手権に参加している開発者・将棋AI研究者でもありプロ棋士でもある谷合廣紀四段、そして当日の解説で会場を訪れていたプロ棋士の渡辺和史七段は、実際にAIを将棋研究に活用する中で、AIで知識拡張することへの人間の限界、AIと人間の応用バランスの難しさについて赤裸々に語ってくれた。

「(将棋の)展開によってどれくらいAIに頼るか変えていますね。自分の感覚も重視しています。AIの評価値を見ても、その後自分が取り扱えるかどうか、バランスを取りながら組み入れていて、どの程度頼るかは棋士それぞれで違います」(渡辺七段)

「私は将棋AIに好まれる戦法を指しているわけではない。AIの言うことは参考にしていますが、評価値がマイナスになるなかでも、自分なりにこれいいな、指しやすいなというものを見出して実践に投じています」(谷合四段)

完全にAIに沿って将棋の実践に挑むわけではないというのは、人工知能の実装が社会で進む中とても重要な視点だ。谷合四段、渡辺七段共に既に、人間の知性を超えたAI活用に対する人間自身が持つ限界について、向き合い続けてきたのだろう。

「AIをバリバリ使って全部研究を詰めるというのは大変。だからこそ人間的バランスを取っているという人が多いです。物凄い変化を記憶しなくてはならない。一個間違えたらいきなり負けになるような変化も多いのでリスクが多いのです。そういうことが強い相手にぶつかっていったら、ただ記憶負けしてしまうという悲しい結果になる」(谷合四段)

「(AIを全て取り込めるような)脳のキャパシティが足りない。そこを補えるなにかが大切だと思いますが……AIは恐ろしいですね」(渡辺七段)

赤子から”神”になる、Alpha Zeroの衝撃

彼らレジェンド的将棋AI開発者に、昨今衝撃を与えた論文がある。David SilverらによるNature論文「Mastering the game of Go without human knowledge」である。

人間のデータなしで強化学習するAlpha Go Zeroの衝撃は大きかった。全ての開発者が喉から手が出るほど夢見たAIであり、囲碁のルールを一から学び、赤子から神への成長を成し遂げるという、驚異的な内容だった。Silver論文の話題はまことしやかに研究者たちの間で広まり、チェスではすぐに真偽を実証するための追試のプロジェクトが行われた。

選手権に参加していた伝説の開発者グループ「AobaZero」も、論文を将棋で追試した人々である。

「Bonanza」の開発者保木邦仁氏、「YSS」の山下宏氏など3名の開発者からなるグループは、論文を追試するのにかかる膨大な予算を実現するために、全ての追試過程をネット公開し一般に参加を呼びかけ、匿名者たちによる協力のもと6746万(2014年現在)もの棋譜を得て、集合知でそれを成し遂げた。

追試は3年前に終了、論文よりレーティング100〜150点下回るほどまで到達でき、論文はやはり正しかったと分かった。

会場にて選手権に出場していた山下氏は「昔から多くの人たちの夢だったので、やられた!と悔しかったですね」と論文発表当時の興奮を滲ませた。

「最初でたらめに動いていたのが、駒の損得が分かるようになってくるなど、それが理解できるニューロネットワーク、ディープラーニングが本当にすごいと思いました。赤子を育てるような感じ。そうなってくると、チューリングの想定した『考える機械』は将棋とか囲碁という分野では実現できていると言えるのではないでしょうか」

「Nshogi」開発者の中屋敷太一氏も、同じくSilver論文に衝撃を受けた一人だ。

「Alpha Go Zeroで人間のデータが全くいらなくなり、悲しいことにむしろ人間のデータは全て悪い手を指していたことが分かりました。それも踏まえて、(そういったAIを創り出せるほどに)人間が進化していることが面白い。AIとの相互作用で人間の知性が活性化していることは間違いないです」

それでも人間にしかできないこと

会場では若い開発者がレジェンドたちに熱心に話を聞く姿が見られた。最年少出場で高校生開発者「koron」の野田煌介氏や、初出場の「はるか」小林航太氏など、新しい世代にも真理追求の情熱は受け継がれてゆく。

運営者席で作業を行っていた東京医科大学非常勤講師(物理学)木下順二氏は、選手権開始以前から将棋AIに取り組んでいた黎明期の開発者の一人であり、現在は医学部で教鞭を取り、学生へのAI教育とも向き合っている。

木下氏からは、“それでも人間が担うべき役割”についてビジョンを聞くことができた。

「医学部でも今後活用していかなければならないという意識はもっています」

医学部では既にChatGPTを使ってなにができるかを学生に教えはじめているという。医学には瞬く間にAIが参入し、診療形態が近い将来完全に変わってくるだろうと言われているためだ。
木下氏はそうした大きな変化に対して、AI技術の活用には賛同しつつ、そこに人間にしかできない砦があると答える。

「将棋はきっちり枠組みが決まっているが、例えば医学は患者から何か意見を求められたときに医学知識だけではなく人生観などが必要になってくる。だからこそこれからのAIが広く社会問題に適応してゆくためには、AIに人間的常識を非常に強くインプットしてから他のことを勉強させなければならないと感じるのです」

病や死への恐怖に苛まれる人々へ寄り添うことは非常に複雑で難しく、”体温を持ったヒトがそこにいて話しかける”という精神的意味合いを再考させられる。

「最後に患者へ告知するのは人間である、という部分は変わらないでしょう。ただしAIのほうが早いし正確であるのは間違いない。診断の補助など、うまく共存して発展させるべきだとは思います」

人類はより良き道を進む

優勝チームを代表して、ザイオソフトコンピュータ将棋サークル野田久順氏。来年はどのAIが優勝するか読めないからこそ、また新しい探究の1年がここから始まる。

日本の人工知能研究の第一人者であり、コンピュータ将棋協会会長、松原仁東京大学名誉教授・京都橘大学教授は、AI技術のみならず、哲学や心理学にも精通し、AIをより包括的な目線で捉えようとしている。

「チューリングが長生きしていればAIの今は更に大きく変わっていたかもしれませんね」と語る松原氏から、AIと人間のこれからについて聞いた。

「人間とAIの関係が、将棋が良いモデルになって他の分野にも影響を与えたらよいなと感じています。人間そのものが持っている知性が拡張されてゆくということが今後のAI発展の指標となってゆくでしょう」

松原氏はAIの発展と実装に際して、人間自身が決める倫理観の策定が重要になってくると強調する。人類が経験しなかった世界であるから今後どうなっていくかは見通せないとしつつ、まずやってみないとわからないと語る。EUでも規制が始まり、世界全体でAIと人間のこれからが議論される中、松原氏は”がんじがらめにしてしまうと健全なAIと社会発展を疎外する”と予想する。規制と開発、運用のバランスを上手くとっていくことが、これからのAIの大きな課題となるだろう。

「AIがあくまで道具として、人類に貢献してゆくことを強く願っています。僕は楽観的なので、最終的には人類は良い道を選んでいくと信じている」

松原氏の力強い言葉が、開発者たちの道標のように会場に響いていた。

※1:本記事は、コンピュータ将棋協会副会長・早稲田大学名誉教授・瀧澤武信様、女流棋士・竹部さゆり様にご監修いただきました。ありがとうございました。
※2:記事に登場する関係者の肩書きは配信日時点のものです。

WRITING BY

伊藤 甘露

ライター

人間、哲学、宗教、文化人類学、芸術、自然科学を探索する者