PHILOSOPHY
哲人たちの饗宴〜「アテネの学堂」スーパーガイド〜
目次
絵画に描かれた智の殿堂
ヴァチカン市国のヴァチカン宮殿は、まさに贅の限りを尽くした宝物の殿堂でもある。度々教皇の住居としても使用されてきたイタリアの核のような場所でもあり、芸術を”伝道”と位置づける、教皇による美術館である。
数えきれない作品の中でも、特に学識を希求する者に今も影響を与え続けているのが、ラファエロ・サンツィオによる「アテネの学堂」だろう。
ヴァチカン宮殿の中には、ラファエロの間と呼ばれている4つの部屋(署名の間、ボルゴ火災の間、コンスタンティヌスの間、ヘリオドロスの間)があり、「アテネの学堂」は署名の間に描かれた巨大フレスコ画である。
部屋全体が天井に至るまでぎっしりとフレスコ画で埋め尽くされており、壁の四方には、中世の大学の学問であった、神学、哲学、法学、詩学をテーマにした作品が描かれ、アテネの学堂はこのうち哲学にあたる。鑑賞者は壁面ギリギリまで歩み寄ることができ、その思いがけない大きさ、荘厳さ、奥行きを仰ぎ見ることができる。
壁面いっぱいにギリシャ・ローマ時代の哲人・賢人達が群衆となって集い、其々が討論を行なっている。誰が誰で、何を表し、何を伝えようとしているのか。絵を前にするとつい考え混んでしまい、長い間立ち止まる人々も時折いる。
実際にヴァチカン美術館の全てをじっくりと見切るには何日あったら足りるかわからないほどなので、非常に有意義な時間の使い方だろう。描かれた哲人たちの人間的でしなやかな描写にダイナミックな構図も相まって、今日でも見る人を魅了し続けている。
ここでは描かれた哲人たち一人ひとりにフォーカスする連載に先駆けて、このラファエロの傑作「アテネの学堂」の歴史背景とそのテーマに今一度注目してみたい。
孤児となった若き天才の旅路
ラファエロ・サンツィオ(Raffaello Sanzio)は、ウルビーノ公国、現在のイタリアマルケ州北部に存在した国家に、宮廷画家ジョヴァンニ・サンティの息子として生まれた。
ウルビーノ公フェデリーコ3世は軍人として実際に活躍していた人物で、槍試合で片目を失った為にピエロ・デッラ・フンチェスカの描いた横顔の肖像に印象深い君主だが、古典文学を愛し文人を擁護したことで名を馳せている。
ラファエロの父ジョヴァンニは画家であるとともに大変な文人でもあり、フェデリーコ3世に捧げる詩作など文学活動も盛んに行っていたことから、より君主に近い存在だったとされている。そんな父のもと、宮廷に出入りしていたラファエロが上流階級者とのコネクションを持ち、交流が得意だったことは、その後教皇ユリウス二世やレオ十世から大変な寵愛を受けたことからも明らかだろう。同時代を生きたジョルジョ・ヴァザーリは、著作『Le Vite delle più eccellenti pittori, scultori, e architettori(画家・彫刻家・建築家列伝)』の中でラファエロの天性の謙虚さと愛想の良さを褒めちぎっており、彼が人に好感を与える才能を持っていたとしている。
ヴァザーリはマニエリスム期の画家・建築家であり、ミケランジェロの弟子でもあった人物で、ルネッサンスの大芸術家たちを見聞きしてきた経験を書き記した。これは現在のルネッサンス美術史の基本資料とされている(以降「画人伝」と略称する)。
父母を亡くし11歳で孤児となるも、父方の叔父バルトロメオを後見人として成長した。それまでに既に絵画の研鑽を積み、父の工房運営にも関わっていたとされ、幼少期の作品からは既にラファエロの才能の片鱗を垣間見ることができる。
1500年ごろ、17歳になる頃には既に画家ペルジーノの元で助手を勤めていたとされている。その後フィレンツェなど各主要都市で絵画を手がけ、その間にレオナルド・ダ・ヴィンチから多大な影響を受けた。
1508年、同郷の偉大な建築家ブラマンテからの推薦を受け、教皇ユリウス2世の依頼の元ローマに渡った。同じ年、ミケランジェロもユリウス2世にシスティーナ礼拝堂の壁画制作を依頼されており、稀代の天才たちがローマに集うことになった。
ボルジアの痕跡を破壊せよ
ラファエロがユリウス2世から依頼された部屋の真下にはユリウス2世と枢機卿時代に激しく対立した先々代の教皇、アレクサンデル6世の居住エリアがあり、ユリウス2世がそこに住まうことを拒否した為にこの改装が始まることになった。
またラファエロが依頼された部屋にもアレクサンデル6世出資による壁画や紋章が既にあったため、それら痕跡を抹消する意図があったと言われている。部屋にはペルジーノなどの画家が既に制作していた部分があったがユリウス2世は気に入らず、全てを破壊してラファエロにやり直しをさせることにした。その際、ピエロ・デッラ・フランチェスカによって仕上げられた部分も破壊されたとヴァザーリは語っている。
アレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)は実に悪名高い教皇で、権力と金と女という私欲にまみれ、暗殺しては私財を没収するなど悪徳を尽くした。悪魔の姿で描かれた風刺画が出回るほど、その名は不名誉に歴史に刻まれている。(実際には外国人であるスペイン人一族だった為、そのように喧伝されるに至った側面もある)
ラファエロの間の真下、アレクサンデル6世の居住エリア「ボルジアの間」は、足を踏み入れるだけで、こってりした壁画に埋め尽くされた空間にやや胸焼けがする。明確に判別できる本人の肖像画はもちろん、ボルジア家、すなわちアレクサンデル6世とその愛人たちとの間に生まれた子どもたちの顔が描かれるなど(また聖母の顔はアレクサンデル6世の愛人がモデルだと噂された)、ボルジア家讃美の間とも言えるだろう。
古代と今が邂逅する場所
ラファエロが手がけた4つの間が持つテーマは非常にルネッサンス的である。
・古代と今世
・異教文化(古代ギリシャ・古代ローマ)とキリスト教の智恵の一体化
・啓示や知識の源としての詩
・倫理的美徳としての正義
これはルネッサンス期にマルシリオ・フィチーノによって広められた新プラトン主義運動に由来している。フィチーノはプラトン全集やプロティノスの著作を翻訳し、古代思想とキリスト教は両立できるものと主張してルネッサンスに大きな影響を与えた。
それゆえ「アテネの学堂」のテーマである古代哲学は、ルネッサンス期には知を希求する欲求と努力の象徴と解釈されており、”人間はその知的能力により現実社会を統治している”とする人間中心のルネッサンス文化と、キリスト教とが連続していると捉えられていた。ゆえにアテネの学堂は古代哲学を描いているが、ルネッサンスの精神を明確に表しているとも言える。
フィチーノ以前に、ルネッサンスの始まりと結びつき論ぜられる影響のひとつに学僧ピエール・アベラール(1079-1142)がいる。
アベラールが中世時代に知性の自由を論じた意義は大きい。盲目的信仰の時代に、理性が信仰に優先するとし、神や善などの普遍的とされる概念も実は人間が名づけて初めて神や善として理解されるのだとする唯名論に理解を示したことで異端の扱いを受けた。これはまさしく人間主体の文化であった古代ギリシャ・ローマ時代への回帰であるルネッサンスの芽であった。
ラファエロはこれらの主題を肖像画などで静的に表現することを避け、ダイナミックな身体動作によってキャラクターを生き生きと描き、そこに登場人物を当てはめてストーリーを表現することにした。
「アテネの学堂」がある署名の間は、神学、哲学、詩、法学に分けられ、人文主義文化に関連するテーマで手がけられた。テーマの選定自体にどの程度ラファエロに自由な権限が与えられていたかは不明だが、彼がローマ教皇庁から手い庇護を受けていたことは間違いない。故にある程度決定権を持っていた可能性はある。
「アテネの学堂」では古代の高名な哲学者と数学者が一堂に会し、非常にシンメトリックな架空の古典的建築物の中で対話をしている。屋根はなく、空は澄んでいる。階段から下と上で画面が分かれ、シンボリックなプラトンとアリストテレスを中心として正確な遠近法が用いられている。その正確さは背景の建物に神聖な厳粛さを与えている。さながら知の寺院の様相である。
哲学者たちの顔には、ラファエロの時代の芸術家たちが割り当てられている。それは彼自身を含む、近代芸術家の知的尊厳を主張するものだったように思われる。
ラファエロと助手たちは、署名の間に1509年から1510年までの1年を費やし完成させた。
私を見つめる目
ラファエロは生涯を通して、ルネッサンスの偉大な芸術家たちの影響を受け、それを我流に昇華してきた。「アテネの学堂」にも、その影響が見られる。
師匠であったペルジーノからは、ルーブル美術館所蔵のペルジーノ作《聖セバスティアヌス》に見られるような、柔らかな光の表現を受け継いでいる。
フィレンツェで出会ったダ・ヴィンチにも多大にインスパイアされた。ラファエロによる、ダ・ヴィンチの『レダと白鳥』の複写ドローイングも残っており、ダ・ヴィンチの技法であるスフマートやダ・ヴィンチ特有の構図を取り入れている。
「アテネの学堂」では、ウルビーノで研究が盛んであった遠近法表現に力を入れている。ウンベルト・エーコが著作『美の歴史』で指摘している通り、当時遠近法というのは自然を正確に模倣再現することと、現実には実現不可能なことの独創的実現の一致と考えられていた。すなわち極めて写実的な描写による聖なる美の再現という、ルネッサンス絵画の醍醐味とも言えよう。
プラトンとアリストテレスの中央に消失点が設けられ、後方から手前にダイナミックに広がる奥行きが演出されている。鑑賞者の目は自然に消失点に吸い寄せられ、カリスマ的な2人の哲学者を最初に仰ぎ見ることになる。絵画の中の建築様式は、ブラマンテの影響とされている。
プラトンはダ・ヴィンチの顔を、アリストテレスはバスティアーノ・デ・サンガッロの顔をモデルとした。プラトンは「ティマイオス」を、アリストテレスは「ニコマコス倫理学」というそれぞれの著作を手にしている。人物たちは時代考証に添ったパピルス紙ではなく、紙の本や羊皮紙を読んでいる。
画面左右に賢人たちの群衆があり、どれが誰を描いていて、誰が顔のモデルであるのかは明らかになっているものもあれば未だ議論の的になっているものもある。賢人たちの詳しい解説は、これから始まる連載で述べてゆきたい。
画面中央下にいるヘラクレイトスは大きな石に肘を置いて孤立している。顔はミケランジェロ・ブオナローティがモデルである。この人物はラファエロの準備段階のドローイングには描かれておらず、後から構想された。
当時システィーナ礼拝堂の制作をしていたミケランジェロはローマを出ていて、ブラマンテがシスティーナの制作現場にラファエロを連れて入り、彼の技をラファエロが学べるよう配慮した。ラファエロはそのフレスコ画たちにさぞ圧倒されただろう。それ以来ラファエロはミケランジェロを研究し、彼の作品の”偉大さ・荘厳さ”を自分の様式に取り入れたとヴァザーリは書き記している。これを機縁とし、ミケランジェロへの敬意を込めてヘラクレイトスを描き足したとされる。
顔自体の識別は曖昧だが、ミケランジェロが眠る時まで履いていたという逸話のあるブーツを象徴的にヘラクレイトスに履かせていることからもモデルは明らかだろう。
ただし絵の中であえてブーツを強調し、馬上でもないのにブーツを履いている滑稽さを描くことで、ラファエロを嫌っていた偉大なるライバルミケランジェロへの優雅なる嘲笑の意味合いも隠されていたのかもしれない。
画面右側の柱付近からこちらを見つめている黒い帽子の人物は、古代ギリシャの画家アペレに扮したラファエロ自身である。全身はほとんど隠れていて控えめながら、”私もここにいる”という、ラファエロの芸術家としての矜持を感じさせる。群衆の中で鑑賞者を真っ直ぐ見つめているラファエロは、自身の作品を誇るように微笑しているように見えた。
哲学者たちからの薫陶
ラファエロはルネッサンスの栄華の中で聖なる才能を存分に知らしめた後、病に倒れ37歳の短い生涯を終えた。その日は1520年、奇しくも彼の誕生日である4月6日であった。
ヴァザーリは「画人伝」の中で、外交官のバルダッサーレ・カスティリオーネ伯爵が彼の死に際して残したラテン語の詩を紹介している。
「おまえの素晴らしい技倆がローマの引き裂かれた鉄枠を治した。火て剣と歳月とで引き裂かれたわれらが都の病める体の古代の美を、おまえはよみがえらせた。」
ルネッサンスの古の叡智への賛美と希求は、現代の私たちにもラファエロの残した偉大な作品を通して影響を与え続けている。
本文をプロローグとし、この連載では、「アテネの学堂」の中でモデルが明らかになっている哲人一人ひとりにフォーカスし、その思想や人物像を深く掘り下げることを目的としている。
連載を通じて、ルネッサンス期の人々が古代の哲学者たちに憧憬を抱き薫陶を受けてきたように、我々の生きる現代社会の礎となった哲学が自然科学に与えた影響、ビジネス、ITにも通じる思想の片鱗を覗いてみたい。
参照文献
Ascanio Condivi, Vita di Michelangelo Buonarroti, Roma, Antonio Baldo Stampatore Camerale, 1553.
Giorgio Vasari, Le vite de’ più eccellenti pittori scultori e architettori, (Proemio della Parte terza), Milano, Edizioni per il Club del Libro (1568), 1964.
Pierluigi De Vecchi, Raffaello, Milano, Rizzoli, 2002.
宮下孝晴著「フレスコ画のルネサンス〜壁面に読むフィレンツェの美〜」日本放送出版、2001年
石鍋真澄著「教皇たちのローマ〜ルネサンスとバロックの美術と社会〜」株式会社平凡社、2020年
ウンベルト・エーコ編著、ジローラモ・デ・ミケーレ著「美の歴史」株式会社東洋書林、2005年
ジョルジョ・ヴァザーリ著「ルネサンス画人伝」株式会社白水社、1982年、(1568年初版)
ウォルター・ペイター著「ルネサンス〜美術と詩の研究〜」株式会社白水社、2004年
伊藤 甘露
ライター
人間、哲学、宗教、文化人類学、芸術、自然科学を探索する者