PHILOSOPHY

明るさが正義のこのタフな世界で

明るさが正義のこのタフな世界で

日本人のこころとは何か


日本人の若者の自尊感情や自己肯定感の低さは、欧米諸国に比べ際立っているとされる。国際調査でも日本の特徴的な数値は常に話題を集め、長らく問題視されてきた。

平成30年度版内閣調査では、「自分への満足感」という項目で欧米諸国の若者約80%が「満足」と答えているのに対し、日本は約45%と際立って低い。また「自分には長所がある」という人は60%で各国中最低数値であり、「容姿を誇りに思う」という人は欧米諸国が70%前後なのに対し日本は僅か31%となった。

しかしここには、注目しなくてはならない点がある。

「自分は価値ある人間と思う」という問いに「全くその通りだ」と自信を持って答えることは欧米では当たり前のことかもしれないが、日本ではそのように答えれば顰蹙を買ってしまうことの方が多いだろう。むしろその問いには「いえいえ、そんな」と答えることが一般的であり、謙遜をもって相手を尊ぶ、やや内向的、内省的な態度が美徳とされてきた。

例えば、手土産を持参すれば「つまらないものですが」と付け加える。社内では「イトウ部長、これでよろしいですか」だが、対外的には「イトウは現在席を外しております」となる。家では「お父さんお母さん」でも、外では「父母」と呼び捨てにする。外部者に対して自分や身内を小さく見せる(へりくだれる)ことが成熟した人格を表し、生活の至る所で大袈裟なほど謙譲語を用いる。

聖徳太子は「和を以って尊しとす」と言葉を残したが、島国で資源が少なく、山林ばかりで居住地は限られている上に、ありとあらゆる自然災害や火事、疫病にも晒されてきた日本では、他者と協調性をもって暮らして行くことが何より生存可能性を高めることに繋がっていたのだろう。

社会通念として未だ謙遜や気遣いが美徳とされながらも、同時に近年様々なメディアで「欧米人にあって日本人に足りないものとは」などと題される否定的な比較が行われてきた。もちろん自己肯定感が高いことは生きやすさにも直結することに間違いはないが、日本の文化的背景を無視して統計のみで判断することは、いささか荒掴みではないだろうか。経済や教育に於いて欧米的価値観をスタンダードとしている現代こそ、豊かな内面性を重要視してきた日本古来の価値観を思い起こしてみても良い。

人間の傾向と密接な関わりを持つ「内向」「外向」の概念に着目し、改めて“日本人のこころ”を見つめ直してみよう。

内なる陰陽を持って立つ


カール・グスタフ・ユングはスイスの精神科医であり、分析心理学(ユング心理学)の創始者である。ユングが提唱した概念で、現在も一般的に広く使われている言葉は多々あるが、特に有名なのは「外向」と「内向」である。

ユングは人格をタイプ別に区分した最初の研究者であり、「内向型」は自分の内面の思考や感情に強い関心を持ち、「外向型」は外界の人付き合いや活動に重きをおくと定義づけた。もちろん人間の傾向をざっくりと2分割するというのはおよそ科学的ではないが、こころというものに真剣に向き合った黎明期に生まれた視座として、一考に値するだろう。

簡単に例えるならば、内向型の人は自分の内なる世界で物事を捉えるのを好む。多人数でワイワイと盛り上がることに苦手意識を持ち、そのような場に駆り出されるとひどく疲れたりする。他方で外向的な人は他者との関わりや社会的活動に活力を見出し、多くの人と場を盛り上げることに楽しみを感じ、家に一人でいるとあまり充足感を感じなかったりする。

ユングは、外向と内向に優劣を規定していない。どちらもあるがままの人間固有の態度と解釈し受け入れている点は、西洋では画期的だったであろう。

またユングは外向・内向が完全に別れている人は存在せず、誰もが両方を自分の中に持ち合わせ、どちらがより表に出ているかでその人の態度が特徴付けられていると考察した。普段は非常に内向的な人が舞台に立つと皆が驚くようなパワーで歌い踊る魅力的な俳優になったり、反対に非常に社交的な人が土日は自宅にこもって読書をしたりすることに意外性を感じたりするのはそのためで、どちらの人も平面的ではない人物像が魅力的に見える。

西洋のキリスト教的完全善悪の世界では、この概念は理解されにくい。しかし古来から東洋では、陰陽図像に代表される影の中に光があることに味わいを感じ、悪の中に善が現れるような人物像に深みを感じてきた。ゆえに、どちらを良し悪しと判断しないユングの相互補完の概念は、我々日本人にはより馴染み深いものに感じるだろう。

自己と向き合う禅と茶の宇宙


欧米では、内向的(in-trovert)というとネガティブなイメージを含んで捉えられることが多い。

主人公の内省的な台詞が多いことが革新的だったアメコミ「スパイダーマン」でも、変身前のピーター・パーカーは冴えないティーン・エイジャーとして描写される。一般的に外向的態度が好まれており、Yes・Noをはっきり表明できたり、社交的で目立つ行動をとる存在であることが正義とされている。

思慮深く物静かな学生は不当な評価を受けていると感じ、チアリーダーやクォーターバックを勤める学生がスクールカーストの上位に君臨する。競争主義の欧米社会では、自信満々に振る舞い自分の意見を貫けなければ、あっという間に弱者になってしまう。ディーン・サイモントンのような天才研究の権威たちが、“いかに偉大な天才たちが内向的な人物であったか”をアメリカ中に著作で紹介する必要があるほどに、この問題は根深い。

反対に日本人は、和を尊び、自慢することを好まず、常に他者を思い計ることが望まれる。自己主張が激しい人は内面性が成熟していないと判断されることも多く、意志を内に保つことが美徳とされてきた。

日本人は元来、「侘び寂び」や「あはれ」、茶や和歌など、文化的にも内向的な態度を尊び、嗜好してきた。特に特徴的なのは、自分の内面と究極に対峙し、心を無にして自己すらを超えて行くことを目標とする禅宗の坐禅や、待合から茶室に繋がる寂寥感や自己への道を表す露地を通り、茶室という外界から遮断された場で亭主と客人が精神的交流を行う内面的審美の極みである茶道だろう。

海外から見えている日本という視点を意識して、こうした日本の内的宇宙を世界へ紹介しようとした人物と言えば、1800年代に活躍した美術史家、岡倉天心が挙げられるだろう。鮮やかな英文を操り、欧米への日本文化紹介と日本文化の地位向上に貢献し、明治時代以降の日本美術という概念の形成に寄与した。

岡倉は英文の自著「茶の本」の中で、「The long isolation of Japan from the world, so conducive to introspection, has been highly favourableto the development of Teaism.(日本が長い間世界から孤立していたことは、内省に資するところ大きく、茶道の発達に好都合であった。)」と、鎖国時代が日本人の文化と内向性に影響を与えたことを鋭く分析している。また日本が自国のみに向き合い平穏に内的美を追求していた間は欧米から“野蛮”と呼ばれ、欧米に倣った第一次世界大戦参戦など日本が外向的攻撃的態度をとると今度は“文明的”と呼ばれるという、この欧米の外向至上主義の矛盾を、岡倉は非常に厳しい言葉で糾弾した。

内向く者という子羊


明治天皇崩御に際しての乃木希典の殉死という一大事件を終点に、家や国や社会を中心として和を尊び生きた明治の精神は終焉を迎え、大正時代にかけて欧米的個人主義が華々しく勃興した。その後振り戻しのように全体主義に走った第二次世界大戦に敗戦し、欧米からもたらされた民主主義教育が広がりを見せると、内向を美徳とした日本社会にも次第に変化が起こった。

学校や会社では、外向的であることが”一般的正義”とされるようになり、内向的であることは”異質”であるとレッテルが貼られ、社会から爪弾きにされるようになった。1988年頃に起きた東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の加害者がアニメが好きだったことから、その傾向に拍車をかけた。考えられないような残虐で猟奇的事件の犯人は、“自分たち”ではなくて“オタク”という特別な人間だった、と考えることで、心のバランスを社会が保とうとしたのだろうか。

メディアはこぞって「オタク」の犯人像を書き立て、人々は嬉々としてそれを受け入れた。事件を発端にしたオタク差別は異常な熱量で盛り上がり、さながら中世の魔女狩りの様相を呈した。“オタク”をスケープゴートとして利用し、世紀末に渦巻いていた社会不安から逃れようとした罪は、現代でも清算されていない。メディアは差別を助長したことを振り返らず、今やオタクを重要な経済のターゲットとしてもてはやす。

激しい内向性への差別は、2000年代を越えても残り続けている。学業で優秀な成績を納めていたり学位があっても、内向的であることで面接で評価されず、コミュニケーション能力に優れた人ばかりが企業に採用される。素晴らしい内面世界を持っていても人前で話すことができずクラスでいじめの標的になってしまうよう。そのようなことが、暮らしの中で堂々と起き続けている。

欧米的なコミュニケーション能力と社交的性格だけが真っ当な人間の在り方であると妄信する、タフな世界に我々は生きている。いじめや自殺など日本の特異的問題に取り組む為には、まずその認識を正す必要があるだろう。

この美しき世界で


明治の文豪、森鴎外の『舞姫』は、「余」を語り手とした彼の心の内面が描かれる。舞姫エリスと出会い強く惹かれる様を「用心深きわが心の底までは徹したる」と表現するなど、言葉や態度ではなく心の奥底の揺れ動きが繊細に描写される。坪内逍遥が『小説神髄』の中で日本の小説の概念について「老若男女、善悪正邪の心の中の内幕をば洩す所なく描きいだして」人間の内面に主眼をあてることと表現しているが、それは夏目漱石や太宰などにも通ずる、日本文学の深みの根幹と呼べる部分であろう。

世界中どこでも、文学はその国の地理や言語、歴史、文化を映すものとされてきた。「日本人のこころ」の豊かな内面世界を再評価するには十分すぎるほどに、素晴らしい文学作品が幾多もあり、また今日も生み出され続けている。学校の授業では誰もが日本文学に一度は触れ、”主人公の心の動きを記せ”などと頻繁にテストには出るが、現実に隣り合う他者を理解する為の道標としては、まだ誰も使いこなせていないのかもしれない。

様々な分野で多様性が叫ばれる今、国ごとの文化の違いを深く鑑みた上で、本当に「外向」だけが社会的正義なのか、我々は再考する必要がある。

「外向」と「内向」とただレッテル貼りをするのではなく、それぞれを深く理解した上で他者を受け入れ合うのならば、それが国や人種を超えた本当の意味でのダイバーシティの礎にもなり得るかもしれない。

参考文献

我が国と諸外国の若者の意識に関する調査 (平成30年度)、内閣府
https://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/ishiki/h30/pdf-index.html
河合隼雄著「ユング心理学入門」培風館、1967年
岡倉天心著、桶谷秀昭訳「茶の本」講談社学術文庫、1994年
ブルーノ・タウト著「日本文化私観」講談社学術文庫、1992年
自己肯定感と子どもたち、金谷光彦
http://www.koyoerc.or.jp/assets/files/375/21.pdf
自己肯定感が「低い日本人」「高いドイツ人」の違い 謙虚で聞き上手な日本人、実は損をしがち?、東洋経済ONLINE
https://toyokeizai.net/articles/-/510319?display=b
外国人から見た謙遜の文化、Bodnar Peter Bela
https://kicainc.jp/contest/pdf/14Bodnar.pdf
私たちのウェル・ビーイングや幸福、人生観に影響を与える性格―内向性と外向性の違い
マレーネ・リッチー 、CHILD RESEARCH NET、2015年
https://www.childresearch.net/papers/rights/2015_02.html
ディーン・キース・サイモントン著「天才とは何か」株式会社大和書房、2019年
近代日本の個人主義(概 観的試論)、伊藤 彌彦
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpt2000/3/0/3_47/_pdf/-char/ja
未来への希求 : 『こころ』と明治の終焉、柴田勝二
http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/20294/1/acs072015.pdf
近代文学黎明期における小説観、岩田英作
https://ushimane.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=1692&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=21

WRITING BY

伊藤 甘露

ライター

人間、哲学、宗教、文化人類学、芸術、自然科学を探索する者

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