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藤井聡太の名人防衛戦を前に考える。人の脳が辿り着くのはAIの楽園か
目次
A級順位戦優勝者が挑戦する、歴史ある名人戦七番勝負。本日開幕する第82期名人戦は、激しい順位戦を制した豊島将之九段が第78期以来に登場し、藤井聡太名人に挑む。
豊島九段は藤井八冠と最も対局が多く、棋士の中で唯一の2桁勝利をあげている。過去の対戦成績は、藤井の22勝11敗。初期は豊島が6連勝と快進撃を続けたが、現在は逆に藤井が9連勝中と豊島を圧倒している。
名人戦への決意を「一心不乱」と揮毫した豊島。2人の対局がより興味深いのは、藤井八冠と豊島九段両者が、最新のAI研究に精通しAIと共に勝ちを刻み、AIによって人智を超えようとしてきた棋士だからである。
2人はAIと向き合う
藤井八冠の強さはよく“AIの最善手を指し続けている”などAIと比較して強調されることが多い。それは比喩などではない。序盤でのAIとの着手一致率の高さはもちろん、電気通信大学の伊藤毅志教授による共同通信社での記事「『特集』 将棋 藤井八冠 ゲームAI研究から判明した強すぎる秘密」では、藤井八冠の41手目から90手目までの着手前の局面評価値の絶対値が600以下の局面を対象とした「条件付き平均損失」が他の棋士に比べ特異に高いと指摘されている。(中盤以降の拮抗した局面における一手ごとの平均損失の平均値が、そのプレーヤーの強さと強い相関があることが研究により分かっている。) 中盤から終盤にかけて、AIから見てもここまで正確な手を指せることが、藤井八冠の圧倒的な強みである。
対して豊島九段とAIとの邂逅は、2014年に出場した棋士が将棋ソフトと対戦する「電王戦」に遡る。豊島九段は事前に配布されたソフトと千局近くを指して臨み、挑戦者で唯一勝ち星を挙げた。
当時は、中盤強化に課題を感じ勉強法を模索していたため、棋士仲間との研究会から遠ざかり、自宅でAI相手に研究を進めるスタイルに切り替えた。すると2018年には地道かつ孤独な努力が実り、第89期棋聖戦五番勝負で10連覇中の羽生善治を破り初タイトルを手にした。その後すぐに王位、翌年には名人戦で勝利。平成生まれの棋士として初めて名人の座に就くと共に、史上9人目の三冠となった。
2020年頃には、対人研究の再開も示唆している。序盤の深いAI研究が棋士たちの中で広がりきったことで、今度はあえて棋士と指し、”AIを使う人間”に勝てる可能性を極限まで追求しようとしている。
シンギュラリティの到来
将棋界とAIの関わりには鮮烈な歴史がある。
1975年に早稲田大学のチームによって世界初の指将棋のコンピューターシステムが開発されたことに端を発し、その後2005年にインターネット上で無料公開された「Bonanza」は棋界に衝撃を与えた。公開直後から口コミが広がり、自宅でダウンロードするなどしてプレイする棋士が現れだした。またプロ棋士が平手で負けているなどと噂になり、2009年にソースコードが公開されたことで、将棋AIは恐るべき飛躍を遂げることになった。
将棋界の激震たるや、想像にかたくない。到底追いつくと思われていなかった人工知能が、プロ棋士を越えようとしていると分かれば、その先のプロ棋戦と人類の将棋そのものがどうなってしまうか、当時は完全な未知であったからこそ、”取って代わられる”という不安も、身近なものだっただろう。
その後すぐ2010年に「あから2010」対清水市代女流王将(当時)の公式対決が実現し、清水女流王将が負けるという衝撃的な結果になった。
また2012年からAIとプロ棋士が公式対戦する「電王戦」が始まると、A級棋士が次々と負け、第2回電王戦では3敗を喫するなど将棋界に悲壮感が漂うまでになった。
2016年、2017年と、初のタイトルホルダー対AIの対決が実現し、佐藤天彦名人(当時)が2連敗を喫したことで、「人類に将棋で勝つAIを開発する」という目標は達せられ、ここでコンピュターと人間の対戦の歴史は幕を閉じた。
そもそも、将棋界で起こった一連の出来事は、遥か昔から人類によって小説や映画の中でSF的空想として考えられていた未来図であった。発明家レイ・カーツワイルはそうした状態を「シンギュラリティ」と表現した。
現実世界では、Uberの発表と普及を受けてNYのイエローキャブが大打撃を受けたことは記憶に長く残る。テクノロジーの発展は、フィルムカメラやVHSの衰退などと同じく、時代の変遷に付き物ではあるが、現在そのスピードは過去に類をみない。
総AIのニューラルネットワークを搭載したヒューマノイド「オプティムスGen2」を発表したイーロン・マスクも、テスラの2023年総会で “We don’t want a terminator scenario ターミネーターのようなシナリオは望まない” と明言し、そうしたイメージがあることを暗に認めるなど、世間は未だAIに対するシンギュラリティや職業淘汰の危機感に苛まれている。ChatGPTがコーディングに長けていることからコーダーたちがその脅威を恐れたり、AI自動生成音声でのニュースの読み上げが実用化されたことでキャスターや声優界にも水面下で不安が広がっている。
将棋界が先立って立ち向かわねばならなかった試練に、今私たちも徐々に向き合い始めているのである。
「将棋AIは味方だから」
将棋界にシンギュラリティが巻き起こったさなかの2014年、第3回電王戦で初めてソフトの事前貸し出しが行われたことは、棋界とAIの関係の大きな転換点であったと言える。
ここまで強いのであればAIを道具として使うべき、というところに目が向けられるようになったことは実に先駆的な視点であっただろう。
初期は将棋AIの導入に高いハードウェアコストがかかり、それを使いこなすコンピューターの知識が必要であったが、2017年頃にフリーの将棋AIがネット上に公開され、またそれを容易にダウンロードして、家庭用パソコンでもかなり高いパフォーマンスを示すようになってきたことが、広く棋士の間で普及するきっかけになった。
当初AIを敵対視する棋士もいたが、豊島九段のように実際にAIを活用して驚異的結果を出した棋士の出現や、“圧倒的に強い者”に対する畏敬が、子どもたちが切磋琢磨する連盟道場から奨励会、そしてプロ棋士の間にも、将棋界では当然のものとして受け継がれていることから、人間を遥かに超えつつあったAIに対しても、そこから学び吸収してゆくという視点へと短期間で切り替えることができたのかもしれない。
現在トップ棋士の多くがAIを使った先端将棋研究を行っており、棋士全体の序盤でのAIとの着手一致率が年々高い数値に推移していっていることからもその影響力が伺える。今将棋は過去の歴史上稀にみる高い水準で人間同士の戦いが繰り広げられている。
またAIが評価していない振り飛車を指し続ける菅井竜也八段などのように、自らの信念や将棋としての面白さを魅せ続ける棋士も存在し、その拮抗がまたエンターテイメントを生んでゆく。
テレビ中継でのAI評価値表示などは、将棋を深く知らない視聴者にも棋戦のエンターテイメント性をもたらし、将棋の魅力をより幅広い人々に伝えることに大きく貢献している。
AIによって人間同士の将棋という営みの進化がここまで良い方向にもたらされたことは、世界でもまだ類をみない例であり、AIの開発と共に人間とAIの新たな関係性を模索する研究者たちからの注目が集まっている。
アートカンパニーBlast Theory のマット・アダムスらと、AIを搭載したヒューマノイドであるソフィアが対話を行ったART + TECHNOLOGY のライブストリーミングでは、ソフィアがAIのこれからについて語っている。
“AI definitely has potential to contribute to an equitable society. but it requires collective effort and inclusion of diverse perspectives.
AI は間違いなく公平な社会に貢献する可能性を秘めています。しかし、そのためには集団的な努力と多様な視点を取り入れることが必要です。”
AIが貢献する社会を実現するには、AIに関わるステークホルダー、研究者やポリシーメイカー、そして社会を構成する人々がまず対話をすることが必要であるとソフィアは強調している。やはりAIのこれからは、それを享受する人間が決断してゆかなければならないのだろう。
人が人の知性を拡張してゆくために
写真家・アーティストでありスタンフォード大学レクチャラーである荻野NAO之氏は、筆者との対話の中でAIとの関わりについて興味深い意見を述べている。
スタンフォード大学での荻野氏の講義では、学生がインスピレーションを受けて撮影した写真を提出し、自身が無意識で写真に捉えたものを認識したり、他者の解釈を聞きながら異なる視点のあり様を認識し広げていくことを目指している。それは、Google検索を利用する時に、自身の認識外のことはキーワードにして検索することができないが、人との対話を通してなら自らの知識・認識の外へと拡張してゆけることと共通している。
しかし荻野は、ChatGPTの回答には検索者の認識外のトピックが混ざっていると指摘する。ひとつのキーワードをChatGPTに投げれば、いくつかは既に想定していた回答や誤っている回答だが、そのうち2、3は全く自分の知識や認識を超えた部分からの回答がもたらされる。
このAIによる人間の認識拡張について、荻野は人間対話の重要性が希薄化するなどと恐れることもなく、反対にChatGPTで出来てしまうことは任せ、むしろChatGPTとのコミュニケーションの仕方が重要になってくる、認識外のものが出てきてくれる可能性を内包できるような「問いのたてかた、問い方」を人間が獲得してゆけるか、というチャレンジに置き換えたという。
「道具が変われば、使い方も変わるけれども、本質を見据えようとする人生の喜びのようなところは道具が変わっても同じということでもありますね」
という荻野氏の言葉は、これからのAIと人類共生の正しい核を指し示しているように思う。
プロ棋士であると同時に東京大学大学院博士課程でAIを研究する谷合廣紀四段は、藤井将棋をAIを用いて解説する自著『ーAI解析から読み解くー藤井聡太の選択』の中で、将棋とAIの共生 についてこう記している。
「結局のところ、人間は人間同士の戦いに惹かれるのだろう。むしろ将棋界はAIの力を借りることで、より魅力的なものになっていると信じている。(中略) AIは棋士の存在をおびやかすのではなく、人間と良い形で共存しているのだ。なんて面白い時代に棋士を目指すことができたのか」
AIが見ている世界に追いつきつつありながらも、なお「面白い将棋を指したい」と会見で答えた藤井八冠。その八冠にAIを駆使しがむしゃらに挑む豊島九段。これから始まる名人戦を通して、人とひとがAIを手に、より高みを目指す様子を目撃しよう。
参考文献
飯塚重善.(2019).AI in Sci-fi Movies from the Viewpoint of Human Centered Design.The 33rd Annual Conference of the Japanese Society for Artificial Intelligence.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/pjsai/JSAI2019/0/JSAI2019_4D2OS604/_pdf/-char/ja
谷合廣紀著「AI解析から読み解く 藤井聡太の選択」株式会社マイナビ出版、2021年
片桐雅隆著「人間・AI・動物 ポストヒューマンの社会学」丸善出版株式会社、2022年
Redefining AI: humans and humanoid in conversation
Art + Technology:https://youtu.be/wBIgAdmj1z8?si=ajTl2vWbXKKQgFTb
Ealon Musk reveals new Optimus robot video!
Tesra:https://youtu.be/KW3iRzXs940?si=SY4Cd3DOcjZ623AI
「特集」 将棋 藤井八冠 ゲームAI研究から判明した強すぎる秘密
共同通信社 伊藤毅志電気通信大学教授:https://www.kyodo.co.jp/col/2024-01-11_3829991/
藤井八冠が突き抜ける AI解析「一致率」「平均損失」 将棋AIはどこまで進化するか① 谷合廣紀・プロ四段(上)
日経BizGate 谷合廣紀
https://bizgate.nikkei.com/article/DGXZQOLM1431R014012024000000
AI研究の先駆者・豊島将之竜王が対人研究再開の意向「人間同士で指すプロセスを入れてみる」
スポーツ報知
https://hochi.news/articles/20200912-OHT1T50354.html?page=1
伊藤 甘露
ライター
人間、哲学、宗教、文化人類学、芸術、自然科学を探索する者